桑名藩

鎭國守國神社 | 桑名藩

桑名藩

鎭國守國神社の藩

神社と桑名藩

鎭國守國神社の歴史は桑名藩とともにあります。

桑名城

桑名藩のお城

桑名城天守台跡


  
 
 此処は桑名城天守閣が聳えたっていた址で、三重県指定史跡です。
松平定綱公の寛永年間(1635~1651)に城郭が完成し「海道の名城」と讃えられます。
 元禄14年(1701)2月城下より発した猛火に襲われて城も焼失。天守閣は再びその雄姿をあらわすことなく、明治廃城に到りました。
 現在の石組みは昭和53年5月に、樂翁公没後150年記念大祭協賛事業の一環として、新しく巨石を入れて献備したものです。

松平越中守家

梅鉢紋と三つ葉葵の紋

略系図の説明 

 久松家は菅原道真の末裔であるため梅鉢紋を使います。第3代桑名藩主松平定勝の母御大は三河城主松平宏忠に嫁ぎ一男竹千代を儲けますが、御大の実家水野家が当時松平家と敵対関係にあった織田信元に属したため松平から離縁されます。その後御大は久松俊勝に再嫁し元康・勝俊・定勝の三人の男子を儲けます。主従の変化激しい戦国の時代、徳川家康は桶狭間の戦いの最中、実母のいる阿古居を訪ね母と対面、弟三人に松平の苗字を与え三つ葉葵の紋の使用を許します。このように当神社施設には梅鉢紋と三つ葉葵紋が使われています。

この系図は、久松松平家と徳川家との関係を、また歴代の桑名藩主を表します。

幕末

幕末と桑名藩

幕末の桑名藩

 幕末、桑名藩主松平定敬は京都所司代として、会津藩主で兄の松平容保や十五代将軍徳川慶喜と京都の治安維持に努めます。
 慶応四年( 1 8 6 8 ) 一月三日の鳥羽伏見の戦いに始まり、東北戦争、函館五稜郭の戦いまで桑名藩は幕府側として戦います。
 ここ鎭國守國神社は、鳥羽伏見の敗戦を知った桑名在住の藩士たちが慶応四年一月十日城内の藩祖神前で恭順か開城東下かの御籤を引く場所となります。


桑名藩 戊辰の役遺構


  
 鎮国守国神社は旧桑名城本丸跡地に松平家の守護としてあります。
 桑名城は明治6年の全国城郭存廃ノ処分令により土地・建物は全て払下げとなります。
 慶応四年 (1868)1 28 日戊辰の役で 桑名に進軍した新政府軍によって、本丸内の辰巳櫓は開城の証として焼き払われます。

舟形石手水

 旧桑名藩軍制致人隊より53名の氏名が刻まれた石手水が寄進されます
 

精忠苦節碑

 戊辰戦争において桑名藩の罪を一身に背負って明治二年(1869)に 切腹した藩士森弥一左衛門陳明を讃える碑(九華公園内)

忠魂碑

 戊辰の役での桑名藩士犠牲者を追悼して、明治二十年(1887)桑名城天守台跡地に建てられた。

姓名碑

 戊辰殉難忠魂碑を建立した義捐者四百十四人の名が刻まれている。 

大砲隊寄進 灯篭一対

 戊辰戦争(慶応4年)の際、桑名隊が柏崎で新軍制を定めた時に編成された 「大砲隊」がのち 明治三年(1870)に寄進した灯籠